ご自愛のバロメータ
20代の半ばをこえて、明確に低気圧に弱くなった。
梅雨の季節にいい思い出をもっている人のほうが少ない気はするが、5月の終わりにも差し掛かると、ぼくは来るべき梅雨前線に対して憂鬱を募らせる。
さいわい花粉症はまだ発症していないため、春の陽気を思い切り享受できる一方で、6月のつらはひどいコントラストになっている。
思い返せば、年間を通して体調が一定であったことは少ない。梅雨に体調が悪くなるのはなんとなくダサいみたいな感覚をもっていた思春期は、6月に無理をして8月あたりに一気に体調を崩す、なんてことを繰り返していた気もする。
それに、10年近く前までは身体に不調をきたすこと自体が甘えであり、「根性が足りない」とか「気持ちが弱い」とかで片付けていた。
ここ数年、「ゴキゲンな自分を」とか「ご自愛」のような単語が広まり、今では「身体の不調に引きずられないように、いかに自分を甘やかすか」というのが一つのトレンドになっている。
そう考えると、これまでの先人たちは想像するのが難しいほどハードな生活を強いられていたわけだ。昔よりもいまのほうがいいことは、何も便利になったことだけじゃない。
ところで、この「ご自愛」にもさまざまな種類がある。個人的にはかなり段階的に取り組みを変えているため、必ずしも習慣と呼べるかはわからないが、一定の規則は設けられていると思う。
例えば、最も調子の良いときはランニング、筋トレ、読書、創作活動、映画鑑賞、仕事をバランス良く行う。一番エネルギーを使う創作はその中でも調子が抜群のときのバロメータとなっている。
少し身体にダメージがあるときは、積んである漫画を読み、お笑い番組の視聴を増やす。さらに調子が悪いときは猫の動画や鉄サビ落としの動画など、脳を働かせなくて良いものを見るようにしている。
これらは調子によって自分で接種するコンテンツを変えるという試みと同時に、接種しているコンテンツの吸収率で調子を判断できるという側面がある。
詩やエッセイは比較的どんなときでも読めるのに対して、論考や長編小説は状態が良くないと頭に入ってこない。少年漫画はいつでも読めるのに対して、ストーリー重視のサブカル漫画などは状態による。
アニメ映画ならいつでも観るられるが重めの邦画は精神状態を選ぶ、ドラマなら比較的いつでも大丈夫。
トーク番組はいつでも大丈夫で、大喜利やネタ番組は気持ちを入れて観るのでいつでもはきついなど、コンテンツに対する自分の反応で自分の状態を確認できる。
政治のニュースや国際情勢などはかなり慎重に取り扱っている。
身体がきついときに見てしまうと、どうしても感情を引きずられてしまい、睡眠が浅くなったりする。
ぼくひとりが眠れないほど気にしたところでなにも変わらないのはわかっているのだが、変わらないという事実そのものが自意識を刺激する。意味のないループだ。
書いていて改めて思うのは、ぼくにとってのご自愛は、仕事でのパフォーマンスを上げるためでもなく、まして健康に気を遣ってこそプロだ、みたいな思想からでもないということだ。
むしろ、生活をより良くすること、生きていれば避けようがないマイナスなこともあるが、それをどうカバーするのかという話である。
誰かに理解されようという話ではなく、なるべくそのときそのときの自分にとって「好き」であふれるものに触れられるようにする工夫だ。
人と喋るのが好きな人、旅行でリフレッシュされる人、美味しいものを食べて多幸感を得る人、それぞれの好みは細分化すればするほど自分だけのものになる。
人と比べることも、人の目を気にすることもなく、自分の好きなものと向き合うと「ああ、生きてるって悪いことばかりじゃないな」と再認識する。
長く生きるということは、ご自愛の術が増えることにもつながる。
乗り越える術のなかった梅雨でも、いまはたくさんの武器がある。
あの手この手で自分を愛し、ゴキゲンに次の季節まで飛んでいけ。