時間を言葉に変えて
少しずつ年齢を重ねていくにつれて、時間の流れる早さを実感するようになってきた。
子どもの頃だって別に、毎日を「長い」と思って暮らしていたわけではなかったけれど、「大人は時間が経つのが早いよ」という先人たちの言葉は耳にしていた。その度に、そんなに違うものなのかなあと漠然と考えたものだ。
結局、大人になった自分の出した結論は「大人に流れている時間は早い」という、例に漏れないものだった。
時間の経過を早く感じるようになる理由は諸説あると思うが、「毎日同じことを繰り返して、新しいことが起こらないために早く感じる」というものが一般的だろうか。
私も毎日同じような日々をなんとなく過ごし、特に25歳を過ぎた頃からはほとんど記憶がないに等しい。つまり特筆すべきことが何も起こらなかったので記憶に残らず、一瞬で時間が過ぎたように感じているのだ。
では、毎日新鮮な体験をし続ければ時間を長く感じられるのかというと、残念ながら現実は甘くない。大人には新しいことはそうそう起きないし、自発的に起こし続けるのにも限界がある。たまに新しいことが起きたとしても、やっぱり時の流れは早いまま。
体感時間の時計は加速はしても、もう減速はしないのかもしれない。
時間の流れがもう減速しないのであれば、せめて何か残せるものを積み重ねて、自分の1年間の軌跡にしたい。
とはいえ、私は日記が1週間以上続いたことがない人間。他愛ない日だったとしても、自分がどういった時間を過ごしたのかの記録が全く残っていないために、時間を可視化できなくて時間を早く感じるのかもしれない。
自分の軌跡を振り返れるものとして私が唯一持っているのは、学生時代に制作していた本だ。中学から高校までの6年間、私は部活動で年に4、5本小説を書いて本にしていた。
文芸部という部活で、自作の小説や詩なんかを書いて製本するものだったが、当時の本は今も自宅で保管して、大切に読み返している。
15歳の自分が書いた物語はとんでもなく稚拙だし、見るに堪えない部分は多々あるがそれでも自分の好きなものが詰まっている。その時の自分の心が見えるようで、自分にとっての宝物だ。
自分の歩いてきた道のりが残っていく、というのはこういうことだろう。
しかし仕事の記録でも食べたものの記録でも、色々な記録は私の生きてきた足跡になるが、なかなか続けられないものだ。
大人になるにつれて小説を書くなんてこともなくなってしまったが、私が継続して書き連ねられるのは、単純な記録ではなくて物語やエッセイなのかもしれない。
こうしてエッセイを寄稿することだって、10年後の自分の大切な宝物を作っているかもしれない。
今年は言葉を書き連ねていきたい。1年後、私が過ごした時間がたとえ短く感じられたとしても、自分の言葉が積み重なって、時の長さを教えてくれるだろう。