ここではないどこかへ
大人になってから、旅行が嫌いだと節々で言ってきた。
もともと家が好きだし、家にいるだけで何の不満もないのになんでわざわざ時間と金をかけてまで好きでもないことをしないといけないんだと思っていたのだけど、こうも家から出ることを許されない日々が続くと「意外と旅行嫌いでもなかったかもなぁ」と追考する。
そもそも、幼い頃は旅行が嫌いではなかった。
子供の頃、旅行雑誌の編集をしていた父の影響で、よく家族旅行をしていた。
国内だけでなく海外も、それも仕事の関係でとても良いホテルに泊まることが多かった。
見たことのない海の色。
食べたことのない食事。
聞き慣れない言葉。
カラフルな街。
広い農地や、車両の少ない電車。
幼い頃はそれが新鮮で楽しかったのが、次第に少しずつ旅行というものが苦手になっていった。
見たことある景色。
なんとなく味が想像出来る料理。
知っている方言。
映像で見た建造物。
行ったことがなくても、写真や映像で映し出される多くの観光地に対して、行かなくてもそこの良さが語られていれば、行ってもおおよそ同じようなことを思って帰ってくるだけ。
そこに時間やお金を使うことが耐えられなかった。
一方で、本やドキュメンタリーなんかでさまざまな場所が語られているものを見るのは嫌いではなかった。
それによってそこには一生行かなくても良いな、とは思うものの知ること自体は楽しいからだ。
そう、自分にとって旅行も「知らない何かとの出会い」が出来るコンテンツの一つなのだ。
だからこそ、そんな自分にとって、唯一目的のない旅に友人と行ったことは良い思い出であり、今でも行くなら予定を決めない旅なら行きたいと思う。
おそらく、子どもの頃の旅行も親が決めたところに連れて行かれるだけなので、行ってみたら楽しいということの連続だったからなのだろう。
大人になって計画していく旅行は、下調べでだいたいわかることで、行っても行かなくても同じような気持ちになっていくのだ。
そもそも、日々仕事などでスケジュールが埋まっていくのに、非日常に対してスケジューリングをするのは何が楽しいんだということが準備する旅行を嫌う一つの要因かもしれない。
行ってみたら、楽しいことがあるかもしれないし、何もないかもしれない。
ライ麦畑でつかまえての主人公ホールデンは、どこに行きたいのかを問われた時にしきりに「anywhere but here」と答えている。
決まりきった日々の中で、ここではないどこかという決まらなさを求めた時に、ぼくは旅の支度をする。