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男性より、男性へ

男性より、男性へ

男性社会からの脱落、ということを意識したのはいつからだっただろうか。

中高一貫の男子校で落ちこぼれたときだったような気もするし、卒業後当たり前のように敷かれている有名大学に進学することもなく草津温泉で働いたときのような気もする。

少なくとも、遅ればせながら大学生となったときに、周囲の「充実させてやるんだ」という血走った眼を見たときには、自分は男性中心社会における中心にはいられないような気持ちでいた。

男性中心社会において、真ん中にいられる人たちというのは何か、ということを考えると、当然のように男性としての優位性を意識・無意識に関わらず習得している人たちだろう。

ここでいう優位性とは、見た目や能力を生かして中心人物的になっていく人や、運動能力に優れているもの、当たり前のように進学することを求められ投資され、出世においても優遇されるコースに乗っている、多くの男性が手にしているもののことである。

勿論、中高一貫男子校の時点で、親はそうした優位性のレールに乗ることを求めていたのだと思うし、レールがあって外れていったという面において、恵まれていなかったというような勘違いはしないようにしておきたい。

失礼な話かもしれないが、自分が落ちこぼれてみて、優遇されていないあらゆる人の目線がリアルに感じられたり、大学に入学して「モテる=イケてる」という価値観の土俵に乗れなかったときにはじめて、男性性の無意識下の優位性に対して恐怖を感じた。

正確には、この「モテる=イケてる」という価値観を攻略するための努力をして、それが何がしかの結果として現れたときに強烈な虚しさを覚えたことが、一生このレールを乗り続けることへの気持ち悪さに繋がっていた。

男性性のレールに乗ることが当たり前と考えたときに、そこから独立した思考、行動をとることは、主観的には「脱落」としか言えなかった。

優位性や承認欲求、権威性の肥大化、そういった他者に押し付けたときに暴力となるような思想に対してNOをつきつけたとき、男性性においては「貧弱」であるとされ「男らしくない」のであるならば、そのレールから脱落することも結構だ。

そのような恵まれた立場からの脱落者から見る景色というのはどうなっているのか、敢えてここで言及したい。

まず、大前提として男性には生理がない。

これは、体調の側面から考えても、精神的な安定を考えても、低用量ピルの服用者と比較すれば金銭的な面でも優位である。

それによって仕事はもちろんのこと、何らかのスキルを身に着ける点においても優位であると言わざるを得ない。

また、近年では少しずつ取りざたされているルッキズムの被害というのもある。見た目を気にする点において化粧をすることがマナーとされている現代では、時間的、金銭的優位が男性にあることは否定できないだろう。

暴力に対する恐怖、という意味でも当然女性のほうが敏感にならざるを得ない。これによって大通りに近いところに住むという選択をとる人や、場合によっては家族との議論の中で実家暮らしを余儀なくされる人、地域から出れない人がいることも無視出来ない。

こういった、生物学的、社会学的に制約を受けている女性に対して、男性は「女性より多くお金を払う」という暗黙のルールの中でバランスをとっていると思いがちだが、問題はこのルール下で男性が精神的優位に立つことが許されていることだ。

同じ時間を共有した時に仮に男性が多くお金を払ったとしても、その場に来るまでのコストを考慮すると同等にはなれても優位になっていい理由がない。

少し脱線するが、社会課題を解決するという現場においては「金銭的余裕のある既婚男性」と「夫の所得が安定している女性」が少なくとも一般的なビジネスの現場よりは多く感じられる。

その結果として時間をかけることが出来る=やる気とされてしまうことも少なくないのだが、男性に関しては家事のほとんどを女性に担って持っているケースが多く、そういった状況において「時間をかける=やる気」とするのは自分の恵まれた環境を棚に上げた視野狭窄であると言わざるを得ない。あなたの妻はあなたの問題で、何かに挑戦する機会を失われている可能性すらあるのに。

こういったところで書くことは少し憚られるのだが、フェミニズムに関する言説の中にある「男性」が自分の一部だと思うと少し不快になることもある。

くくりとして、アイコンとされる男性に自分が入っていることに対する嫌悪があるからだ。

ただ、一方で「男性の中でもこういう人もいる」だとか「個体差に大きく影響する」などと言った議論が的外れなのも事実なのだ。大きいくくりの中にある有利不利を埋めることと、個別事象への対策・配慮というものはまるで別の事柄だからである。

僕らやそれよりも上の世代では、「男性を女性を守り、女性に立ててもらえる」という教育を受けてきているし、委員長が男性、副委員長が女性という暗黙のルールが飛び散らかる中で生きてきている。

だからこそ、「女性に優しくするのに、立ててはもらえない」、「女性も同等の活躍が可能な社会」に対して居場所が奪われるような恐怖感があることは、決して共感できない感情ではない。

だけど、まだこの社会は女性を守ってもいなければ、権利を認めても、挑戦権も遥か高いところに置き去りにしたままだ。空虚なアドバンテージを守ることに必死になるよりも、同等のステージで支え合い、守り合うことを目指すほうが、絶対にかっこいいという価値観になって欲しい。

世の中にはあらゆる主張をする人たちがいることもたしかで、もちろん中には行き過ぎた主張をする人がいる、ということも認めたうえで、正当な主張を聞き分けて、行動出来るようになることが今の社会では求められている。

正当な主張を行き過ぎた主張と混ぜ合わせて、一緒くたに批判し対立するようでは、優位な場所からの暴力をふるい続けているように見えて当然なのだ。

分かるのだ。仮にそれが優位性ありきのレールだとしても、そこをはみ出さずに必死になってきた人たちが決して批判を受けるだけの存在ではないことも。

そこに努力がなかったなんて言えないことも。少なくとも、脱落するよりも、その中で勝ち続けるように思考も思想も固め、恐怖に駆られながらも前に進んできたことは揶揄されるだけのことではない。

それでも、そうした時代の中で前の方で走っている人たちが、正しい方向に示し直す作業をする希望を見せて欲しいと願う。

この大きな流れは、止められないし、止まっていいはずがない。

僕のような社会課題解決に日々向き合う人、蔑ろにされてきた苦しみを持つ人たちの声がこれ以上に小さくなることも、その歩みが止まることもまるで考えにくい。

そうなのであれば、せめて変える側に立つほうが、要らぬ恐怖心から人を傷つけずに済むのではないだろうか。

男性だから、女性だからという大きな性差の問題が解決しないことで、もっと細かい個別事象の議論がかき消されることも、それらが性差の問題の雲隠れに使われることもなくなれば、もっと早く、もっと大きな渦の中で社会というボロボロの構造を救うことが出来るはずだ。

この記事を書いた人

ニシオヒカル

ニシオヒカル

株式会社MAGiC HoURの社長。 社会学や政策学を軸に「心優しい人たちが挑戦をあきらめない」社会を実現するために事業を展開。 漫画、アニメ、映画、お笑い、演劇などのサブカルチャーをこよなく愛する。