使っているのか、使われているのか?
私はデジタル音痴で機械ものにとんと弱い。
過去をさかのぼるとビデオデッキを初めて自分で買って設置する時に配線がさっぱりわからずに結局電気屋さんに来てもらって接続してもらったという情けない話がある。
大学生の頃に携帯電話が爆発的に普及したが、興味を持てずにいたのでずっと固定電話のみで過ごしていたのでお前と連絡を取るのが難しいと友人たちからブーイングを頂いたものである。
何となく苦手意識があったので避けていたのだが、就職活動を機に携帯電話を持つことになった。
その頃の携帯電話は通話とメールくらいしかできなかったが、画期的に生活が便利になって感動したことを覚えている。
ちょうどその頃パソコンも一般的になってきており、こればっかりは時代に取り残されまいとアルバイトで貯めたなけなしのお金で最新鋭の機種を購入した。
今考えるとその性能の低さにビックリするが、ワープロしか使ったことの無かった私からしたらインターネットは革命的な発明であり機械音痴なりに必死に勉強した。
そのおかげで今でも日常生活に困らない程度には扱うことが出来る。
それから時代は流れ登場するのがスマートフォンである。
最初に出た時は板状の液晶画面をスリスリと触って操作するなんて流行らないだろうと思っていたら、あれよあれよと世の中に取り込まれていつの間には普通の携帯電話はガラケーというあだ名をつけられて旧時代の遺物扱いになってしまった。
スマートフォンが画期的だったところはカメラの機能を思いきり強化したところで、撮った写真をインターネット上に公開するSNSの登場も大きなエポックメイキングだった。
かくしてスマートフォンは小さい子なら小学生から持っているのが当たり前の時代になってしまった。
そしてスマートフォンは圧倒的なコミュニケーションツールとして世界中に広まった。
例えば電車に乗った時にある程度空いていたらほぼほとんどの人がスマートフォンの画面に釘付けになっている。
その光景はよくよく考えてみたら少し異様な気がしてもやっとする。
そして街中でも至る所でカメラの撮影音が鳴り響いておりこれもまた小さなストレスを感じる。
最近一番モヤモヤするのは、たまに実家に顔を出した時に夕飯をご馳走になる事があるが、その食事の時に兄がずっとスマートフォンでゲームをしながらご飯を食べている姿を見た時である。
これは作ってくれた母にも失礼だし、会話を拒んでいるという意味でも大人としてどうかと思う。
せっかくの和やかな空気を乱したくないのでネチネチと絡んだりはしないが、出来ればやめて欲しい悪い習慣だと思う。
このようなながらスマートフォンは社会問題にもなっているし、車を運転中にいじっている人は交通違反になっているのに減っているような気がしない。
歩きながらスマートフォンを触っている人を見かけない日は無い。
本当に便利な機械だと思うが、たかだか電話である。
その電話が生活のあらゆる場面を支配していると思うとゾッとする時がある。
あまりにも当たり前になってしまったスマートフォンのある生活、果たしてこれが私たちの目指していた未来なのだろうか?
カメラの性能や通信速度の速さばかり競うだけでなく、モラルやマナーの向上も必要なんじゃないかなと思った次第である。
まあ私は機械音痴なのでいまだにSNSは一切やっていないんですが。
今スマートフォンを没収されても別に生活に困らないしなぁ。
もしかして私がガラパゴス化してきているのかもしれない。
時代遅れで大いに結構。