自分と相手と。
自分のために生きることが苦手な私は、自分のためがわからない。
相手のため、誰かのため、今日も私の心は宙ぶらりん。
「へたくそな生き方してるね、かわいそう。」
「変に大人びてるんだよ。」
まわりは好きなように私を笑って、楽しそうに自分を謳歌している。
私は、わたしは、
誰のために生きているのか。
先生は言う。
「頼まれたことは、はいかイエスで答えるんだよ。」
喜んでお受けします。私にやらせてください。ぜひ。
どこまで受け入れたらいいのか。
全て?
相手のため?自分のため?
もちろんやりたくて受け入れることもある。
でもどこまでを「はい」と「イエス」で答えればいいのか。
「自分をもっと大切に。」
「無理しないように。」
自分を大切にする元気がない。
無理がわからない。無理をしているつもりはない。
こうして私が壊れてく。
いや、はじめから壊れていたのかもしれない。
誰かに必要とされることが嬉しくて、それでいて自分の存在価値を感じられる。
誰かのために生きているほうが私にとって楽だと思っていた。
でもそれは自分で自分の首を絞めているだけだった。
私がひどく悩んでいるときに、耳を疑うような言葉が飛んできたことがある。
「何をそんなに悩んでいるの?私だったらポジティブに考えてすぐ立ち直るのに。」
何を言っているんだこいつは。
腹が立つというよりもあきれた。
同時に、誰かのために生きる意味が分からなくなった。
自分でも気が付かないうちに積もり積もっていた我慢の蓋が、ここぞとばかりに一斉に開いた。
あんなことや、こんなこと。
二度と思い出したくない過去。
誰かのためを思ったことに進んで取り組んできた。
でもそれは、相手の反応が自分の求めていたものでなければ納得がいかない、結局自己中心的なものでしかないのではないだろうか。
その割に自分ときちんと向き合えていないから、何のためにこれまでやってきて、これから何がしたいのか、自分を主語にして話すことができない。
私は自分から逃げるただの都合のいい人に成り下がっていた。
考えなければいけないのは、自分から逃げているという事実。
相手を優先した行動がゆえに、どうにもならない時がある。
例えば思っていたより自分に合わなかったり、身体が追いつかなくなったり。
それを、「仕方ない」「これも1つの勉強だ」と終わらせてしまう悪い癖がある。
それがゆえに1つ1つの物事を考えることを自らあきらめてしまっていたのである。
考えることが辛くなって、納得という形でその場から逃げ出していた。
自分は何が好きで、何が苦手なのか、それさえも考えることを放棄していた。
まずは放棄されていた感情をすくい上げる練習をしたい。
しかしこれだけが正解ではない。
正直、いまだに答えにはたどり着いていない。
いやむしろたどり着けない、と表現したほうが正しい。
相変わらずイエスマンなことには変わりないし、逆に予定が埋まっていないとそわそわするし。
でもきっとどこかで、自分がわかるんじゃないかと思っている。
ありがたいことに私は周りの人にも環境にも恵まれている。
挑戦する場がある。
失敗しても受け入れてくれる場がある。
話を聞いてくれる人がいる。
本気で向き合ってくれる人がいる。
時には人に頼ってもいい。
綺麗に偽る必要もない。
心の声に耳を傾け、ありのままの自分を受け入れられるように。