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ボランティア=「えらい」の縛り(1)

ボランティア=「えらい」の縛り(1)

ボランティアをしていると「えらいね」とよく言われる。

自分の学生時代を振り返ると、周囲からポジティブな反応を得たいくつかの場面を思い出す。国際協力活動を通して話すとき、自分の親や祖父母、同年代の人からは、「若いのにあなたはえらい!自分の子ども/孫は遊び歩いてばかりだよ」と声を掛けられた。
大学の同級生からは、勉強やサークル、アルバイト以外にボランティアをしていることの珍しさからか「すごいね」という反応が多かった。
大学の授業で所属団体の活動説明をする機会があり、授業後に取られたアンケートには自分と同世代からの「えらいと思います」という感想を複数見た。

そのような度に反応に困り、曖昧な返事でやり過ごすことも多かった私は、次第にボランティアの活動説明やボランティア団体に所属していることを説明する場面では「●●の活動をしています」といったように、「ボランティア」という単語を極力使わない説明をするようになった。むろん、そうしたところで、「えらいね」の反応が無くなることはなかったのだが。

今考えると、私のささやかな「抵抗」は、多くの人が持っているように感じたボランティアへのイメージと、自分が実際に感じるボランティアの姿とのギャップから生まれたものだったと思う。
ボランティアを行っていると活動への金銭的報酬が発生しないことはもちろん、交通費や昼食代は自己負担となることがほとんどだった。冒頭の私が経験したボランティア活動に対する周囲の反応も、自分以外の誰かのために自分の時間やお金を使って何かをすることに向けられていたのだと思う。手弁当で社会のために活動することは「自分にはできない」と。

しかし、私がボランティアに対する周囲と自分の捉え方にギャップを感じたのは、ボランティアのいわば自己犠牲的なイメージではなく、ボランティアの活動をしているというだけで無条件に賞賛されがちな傾向の方だ。
学生時代にボランティアをしながら常に感じていたのは、「自分は社会に良いことができているのか」という疑念だった。活動を通して思い知るのは自分にスキルも経験もない事実で、唯一あった活動や社会課題に対する想いも空回りすることばかりだった。他方で、ただボランティア団体に所属するだけで、その場にいるというだけで、賞賛される。この他者/社会と自分のボランティアに対する認識のギャップに当時はどことなくモヤモヤした気持ちや後ろめたさがあった。

そして、このギャップは私だけに生じているものではないことが分かってくる。(2)につづく

この記事を書いた人

ほそみ

ほそみ

高校生の頃に国際協力に関心を持ち、大学・大学院時代はベトナムとアフリカで国際協力の活動を行う。卒論と修論はともに国際協力について執筆する。卒業後は、地域福祉を推進する団体に勤務し、現在は一般企業で働きながら更生保護に関わるボランティア活動を行っている。社会のために良いことを学生時代から現在に至るまで日常的に実践し続けられたわけではなく、肩ひじを張らない自分なりのソーシャルグッドな生き方を模索している。