ファッションの自由さ、不自由さ
わたしはファッションが、お洒落が、好きだ。
服もそうだし、アクセサリーを兼ねた眼鏡も、スニーカーも、日々いろんなものを試し、考え、選んでいる。
一目惚れしたブランドを輸入するためにトルコ語のホームページを読んだり、税関通過時に没収&焼却コンボを受けないかと商標を調べたり、おしゃれには時間もお金も費やしてきた。
衝動買いで後悔した服も数知れず、ここ3年くらいはトルコから輸入したゼブラ柄のジャケットを持て余している。定価10万円の宇宙柄のジャケットも、そろそろ着続けるのが難しいお年頃な気がしてきた。
【1】
個人的に、ファッションの面白さは物を買って消費する娯楽性だけでなく、人間のインターフェースとして意味合いにもある。
ありがたいことに、仕事は完全私服。社内だけで完結する日はバンドTシャツにデニムだし、商談がある日はシャツにスラックス。誰に見せるのか、自分が何であるのか、変えられる手段を持ち、変えることの面白さを感じながら、日々着る服を選んでいる。
最終的にどんなインターフェースを持ちたいかとの話でいうと、わたしにはファッションを通じてなりたい人物像がある。
実は、きゃりーぱみゅぱみゅのようになりたい。初めてライブに行った日からの推しだ。
きゃりーぱみゅぱみゅのようになりたいと言っても、推しの顔になりたいとか、彼女の奇抜な服装(最近は落ち着いている)を真似たいとか、いう意味ではなく、彼女のように、ファッションを通じて素顔でありたいと思っている。
もちろん、世に出ているきゃりーぱみゅぱみゅはメイクばっちりだし、ヘアカラーも服装もすべて「見せる」ための姿をしている。
ただ、最近こんな記事を読んで、彼女のような素顔に、彼女のようなあり方になりたいと思うようになった。
本来の自分に戻るメイクをしているうちに、変化がありました。素顔が、メイクした顔にだんだん近づいていくんです。(…)きゃりーぱみゅぱみゅさんも、どんどんすっぴんがメイクをした顔に近づいていますね。彼女はコンプレックスの多い少女時代を過ごしていたように見えますが、ああした極端なメイクで自身を表現しているうちに、どんどん自分が回復していったのでしょう。
引用元: 日本企業はマツコ・デラックス的な人を排除してきた 女性装の東大教授が語る、真の多様性
ファッションを、自分の表現を貫くうちに、きっとそのあり方は自分らしさになって、自分を守り、維持することにつながると感じている。
【2】
一方、ファッションは自分だけで完結せず、必ず周囲から見られるものだ。だれも彼もが、望むと望まざるとに関わらず、自分を服装で表現することを強制されている。
否。私たちが、他人の服を見て表現を勝手に読み取っている。自らが属する文化で「一般的」と思っているものから、着ている服や身につけるもので、勝手にその人のイメージを膨らませる。
用途不明なジッパーがついた、裏地チェックのチノパン。豹柄のジャンパー。妙にサイズがあっていない気がする黒のスーツ。紫とピンクのロリィタ。
「服装に興味がない男」「大阪のおばちゃん」「就活生」「地雷」。
そんなイメージが湧く服の群れ。
何らかのイメージがこびりついてしまった服を見るたびに、私たちはそれを身にまとう人の性質を勝手に解釈し、決めつける。
【3】
ファッションに対する評価には、その人らしさを強制させる力がある。
最近、ジェンダーレスな制服が増えてきた。中学校・高校合わせて実に1000校がジェンダーレスな制服を取り入れていて、15校に1校の割合で、生徒は自分が着る制服を選択できる。女性がスラックスを履いても良いし、男性がスカートを履いても良い。
選べる、とはいえ、まだまだ女子のスラックス選択も、ましてや男子のスカート選択も少ないのは実情。スラックスを選択する女子は学年に5名未満、スカートを選択する男子はほとんどいないと、ジェンダーレス制服の開発会社は話している。
制服の選択肢が広がっただけでは、着た際に周りから受ける有形無形の言葉は変わらない。個人では自分に合う制服を選ぶ自由があるけれど、着ることが特別と見なされるのでは、服装の自由も、まして内心や表現の自由もない。
【4】
制服の変化に留まらず、内面のあり方に対応して、ファッションは大いに変化している。
メンズメイクが流行し、ユニセックスの服がいたるところで売られている。ジェンダーレス男子という言葉さえ生まれる時代になった。ジェンダーレス男子は男子なのか?と考えるのは、きっと古い考え方なのだろう。
しかし、何を着るのも、どんな自分であることにも自由である時代は、まだ来ていない。
ファッションで作り、守っていく自分らしさが、抑圧されない世の中になることを願って、私は今日も服を選ぶ。