Category

28歳の僕のささやかな心配

28歳の僕のささやかな心配

コロナとの付き合いが日常化して久しいですね。
数年前までは、仕事終わりに飲み会をしたり、季節に合わせて忘年会や新年会やお盆の集まりがありました。

当時は「そんなに集まらなくても」と少し冷めた態度でこうした場に参加していましたが、いざ無くなってみると寂しいものです。

僕は文化的な行事にあまり縛られたくない無粋な人間でしたが、社会の中に共通のスケジュールがあることで、人間関係が守られていたんだなと気づきました。
あらゆる年齢、性別、立場の人がコロナの煽りを受けて寂しい思いをしていると思います。

ですが、僕が特に気になっているのは「大学生」への影響です。

仕事柄、大学生くらいの年齢の若者と関わることが多いものですから、生の声を聞く機会もあります。
学生時代の僕にとって、「夢のキャンパスライフ」というスローガンを掲げ、資本主義社会における生産性の概念からは完全に切り離された無意味とも思える時間を過ごすことは、楽しい反面「これでいいのか?」とも感じていました。

例えば、青春18切符を買って地元の友人たちと日本中を巡って、移動中はずっと麻雀アプリで対戦するとか。
例えば、一人暮らしの下宿で映画を見て酒を呑んで、取り止めもない人生哲学まがいの思考に耽っていたら気づけば日の出の時間だったとか。

こうした時間は何だったのだろうかと 28 歳の僕は時々思い出すように考えてみるのですが、コロナ禍で入学した学生と触れ合っていると以前とは違った想いが湧いてきます。

いま、大学生と話をすると、大学に行く機会が週に1回しかないとか、講義は全てオンラインだとか、なかなか友達ができないといった話をよく聞きます。

もちろん、個人差がありますし、大学によっても学部によっても状況はまったく異なるでしょう。

ですが、確実に人に会いづらくなってはいますね。
特に、リアルな場に混ざっていくこと、巻き込まれていくことが失われていると感じます。

出かけることに生命のリスクが伴うので無駄な外出はしづらくなりましたね。
人と会うことにも、集まる場を持つにも同様のリスクがあります。

「何気なく大学のキャンパスに行ったら同じ講義を取っている顔見知りと出会って…」
みたいなことが極めて起きづらい状況だと思います。
オンラインツールも随分と進化していますが、混ざったり巻き込まれたり流されていくような場はなかなか難しい気がしています。

なぜ、こんな取り止めもない話をしているのか?

はっきりとは言葉にできないのですが、大学を卒業してから年数が経てば経つほど、生産性や計画性とは全く異なる、偶発的で乱雑で意味を見出すことが難しい出会いや時間が、自分の土台の一部になっていると感じるからです。

コロナで変容した社会の中で、多くの人が大学生活という時期に過ごす「形容し難く価値を見出しづらい時間」が失われてしまったのではないかと想像すると少し怖くなるからです。

わざわざ話題にするほどのことではないかもしれないですが、少しだけ無目的なことを許容しづらくなっていたり、少しだけ無計画な行動を取りづらい「私たち」になっているのではないかと思います。

そして、多くの人が人生で一番、自由で偶発的で無意味な時間を過ごすはずだった大学生活が変容したことで、その世代の若者にとって小さくない影響があるかもしれません。

「経験のデザイン」という言葉がありますが、コロナによって図らずもデザインされた経験が私たちに与える影響は、私たちひとりひとりが丁寧に見ていかないと大きな歪みを生む気がしています。

悲観的になる必要はありませんが、社会は思いのほか、ひとりひとりの人間の出会いや経験によって形を変えています。
特に、若者がどんな青春を過ごすかによって数十年後の社会の姿がまるで変わってしまうことをみなさんと一緒に大切にしていきたいと思っています。

この記事を書いた人

後藤大輔

1993年、香川県生まれ。龍谷大学政策学部卒業。最近の夢は「いのち輝く社会の実現」。 靴をきっかけに若者が輝くソーシャルビジネス「革靴をはいた猫」で働き、多くの仲間や応援者と共に豊かで味わい深い日々を過ごしている。 18歳の時から人間の説明書がないことに強烈な違和感を感じて人生哲学やマインドの使い方をライフワークとして探究。 今では最先端の認知科学に基づくプロフェッショナルコーチングの資格を取得して夢に向かって爆進中。