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エコとずぼら

エコとずぼら

できればエコな暮らしがしたい。

丁寧な暮らしでごみを減らす。
早寝早起きを心がけ、健康的に電力消費を抑える。
食品や生活用品の無駄をなくし、一つのものを長く使うことで、消費社会から身を置く。
菜食主義を意識し、家庭菜園で育てた野菜で自炊をして、生ごみはコンポストへ。

ふいに夢想するそんな暮らしは夢のまた夢。

実際はついついYouTubeをだらだら見続けて夜更かししてしまうし、
食べ忘れた食品を罪悪感に駆られながら、そのままごみ箱に捨てることもままある。
テーブルが汚れた、鼻水が出るとあれば反射的にティッシュを取り出し、何枚も消費してどんどんごみ箱に捨てる。
菜食主義が望ましいことを知りながら、結局は肉も魚もあっけなく胃の腑に落ちていく。
もちろん生ごみは直接ビニール袋へ投入である。

私にエコな生活などそもそも無理な話なのではないか。

元からずぼらで、極度の面倒くさがりを自覚して久しい。部屋は片づけられず、洋服が散乱し、読み終えた本が塔を築き、ごみ箱にはエベレストのような三角の山ができている。
基本的に部屋にスペースがないので、ほとんどのことをベッド上で行う。本を読むのも、音楽を聴くのも、動画を見るのも、昨年突如導入されたテレワークに至っても、ベッドに腰かけてやり過ごした。

結局はすぐに弱気になって、環境に負荷を掛けない生活をするにはある種の適性が必要なのではないか、などと考え始める。

例えば几帳面で、丁寧で、真面目で、熱心で、問題意識の高い、自分を律する気持ちの強い人が、きっとそういった生活を維持できるのだ。

私のようなずぼらで面倒くさがりにはそもそも向かないことなのだ。

そんなふうに自分が思うエコな暮らしへ奮起しては、それができない自分に失望する。
日々、「エコな暮らしをしたい」という願望に、「ずぼら」という性格特性があっけなく立ち塞がる。

こんなに便利になってしまった世界で、環境に負荷を掛けない暮らしを意識し続けることは相当に難しい。

繰り返す浮き沈みの中で、あるとき、自室へ訪れた姉に「飲み終わったカップくらい片づけな」と指摘を受けた。

紅茶を飲み終えたカップを部屋の片隅に放置していて、そのだらしない行いがあっけなく発見されてしまった形である。
決してその存在を忘れていたわけではなく、部屋に足を踏み入れ、目の端にカップを映す度に、片づけなくちゃと思ってはいるのだが、つい後回しにしているうちにそのまま忘れてしまうのだった。
そのため姉の指摘も尤もで、気のない返事と共にカップの中身を覗き、ハッとする。

カップの中で紅茶のティーバックが干からびてカラカラになっていたのだ。

そこではたと気づく。これも一種のエコなのではないかと。

生ごみの80%は水分らしい。水分を多く含んだまま捨ててしまうと、ごみが燃えにくくなるため、焼却効率が悪くなるのだとか。そのため生ごみは水分を絞って捨てましょうというコラムを何かの冊子で読んだことがある。

干からびたティーバックを手に持ってみると驚くほど軽い。これなら焼却すれば一瞬で塵になるだろう。
ふいにティーバックの軽さが心の軽さになったかのように、気持ちがほどけた。

実はこんなところにも“エコ”は転がっているのかもしれない。実のところ、できることはもっとたくさんあるのかもしれない。

どうしても難しく考えてしまうし、周りに話すと正義感丸出しの主張だと煙たがられることもあるけれど、簡単に実行できて自分の心が弾むこともたくさんある。

飲み終わったカップをつい放置してしまうという自分の不精を人知れず正当化できて、ごみ袋が軽くなればちょっと得した気分になれる。そういうことを探していくのはきっと楽しい。

そんなことを考えながら、今日も私はティーバックを放置してカラカラにしながら、カップを片づける面倒臭さと手を繋ぐ。

この記事を書いた人

ナナシマハル

1991年生まれ。北海道在住。環境問題に興味を持った理由は、暑いのが苦手すぎるから。毎年5月頃から夏の気配に怯えて過ごす。